自己管理を問う
一日たった二回の薬をさぼる

たまりにたまっていく薬

胃潰瘍薬でもある薬

たった一つづつなのに管理不足

やばい

心的外傷ストレスという病名で、週一度通院しています
退職のきっかけになった、職場での事件とその後の対応が
フラッシュバックして辛くなることのある私

こないだなんて通院日さえすっかり忘れてた

不眠症は治ったものの
感情の起伏でフラッシュバック起こすのが治らない

あの時よりは大分楽にはなったけれど
自分が誰かに投げ付けたりする言葉に責任を持てなくなるときがある

喧嘩とかささいなやりとりで
ツライコトが傷口を裂いて顔を出す

己を守るために覆う鎧で相手を無駄に傷つける

大丈夫なときと大丈夫じゃないときの差が激しいなと思う

私の役割ってなんだろ

私がいる意味ってなんだろ

時々見失いながらも

支えられてここにいる

ありがと

今はそれしか言えないけど
心から安心して笑える日々がいつか来ると
みんなが笑って手を延ばす

ありがと

私にできることは

あるかな


手を握り返して考える

今はまだ
泣きそうな笑顔で答えるばかり

ジコカンリ

散々戒められてきた言葉

ジコカンリできなくて
誰の役に立てるというの?

あの人が投げた言葉

目をそむけるな
耳をふさぐな

今の私に一番必要なこと

まず

足元から


基本に返る

看護学校廃校

2004年4月14日 看護観
以前からうわさになっていたのだが
本格的に、私が通っていた母校の某看護専門学校は廃校になるらしい
近くに看護大学ができたのだ

看護界も大学が先進してきていて
専門学校は生徒数を確保するのが大変になってしまったらしい
もともと1学年40人くらいだったのに
それすら確保できなくなったとは

・・・ってか付属の病院への就職率が3分の1から4分の1って
まぁ、みんな大学病院行きたがるしね
学費が安いから、某市立病院付属の看護学校受けて、国試受かったら大学病院へ就職なんてざらですもん

この看護過程の本も、先輩から安く譲ってもらったりしてすんごい読みまくったなぁ・・・
あの頃

ちょっと調べましたが
今は40歳越えても受験できるところはあるらしいです
看護学校

ただし、3年はそこで勉強&実習ですから
看護免許取れた後の就職先が限られてしまうようです
個人病院なら、たぶん50歳までとかありますが
教育面では・・・ちょっと疑問

日本看護協会が原宿キディランド付近にあります
そこで資料請求可能です

ああ・・でも母校が廃校かぁ・・・
寂しいなぁ

病院自体はなくならないけれど
学校は寮が地盤沈下で建て替えられないってのもあり
ぼろぼろでしたからねぇ・・・・

でも今いる3年生が卒業したらってことなので来年まであるそうですが

同窓会名簿申し込み用紙とか送られてきました
どうなのよぅ

久しぶりに専門時代の友人に電話して
近況を報告しあったり

だれだれが子供生んだとか、仕事やめたとかそんな話しつつ
もうこれだけ長く看護やってると看護観なくなってくるよねぇ
なんか、『仕事』って割り切ってる自分がいるよ
なんて話したりして

学生時代は、バリバリできる看護師になろうとか、
患者さんには誠心誠意尽くせるようになろうとかいろいろ思ってた

でもふたをあけたらそんなん無理で

現実って・・・厳しいなぁ

訪問も、あこがれればあこがれるほど、理想とのギャップに苦しむのかな?
うーん・・・こればっかりはやってみないことにはと思う

なんにしろ・・・33年間お疲れ様でした
某看護学校へ


New疾患別看護過程の展開ISBN:4051520781 単行本(ソフトカバー) 関口 恵子 学研 1999/12 ¥6,825
準夜勤務でした。

夕方の時点で

PEITは終わって無い。
手術患者は5名中3名帰って来ていない。
しかもビドマ−(点滴とか作る作業台)の入れ替えとかっていって
薬剤や明日の点滴がステーション机にだぁーっと出してあり汚い
そんな状況下で

申し送りの途中っからチーフリーダーさんに
「空床確認」の電話。

結局4時/5時と消化器と内分泌内科の患者さんが緊急入院。

日勤さんが残って、オペ迎えとかいってくれたものの。
やれ点滴だ・血糖チェックだ。配膳だ。
バイタルだ・・・

とバタバタしていて

やれやれ・・・と思った矢先に
ターミナルの患者さんが下顎呼吸に入ってしまった

ドクターが運良く当直だったのと、
夕方ラストムンテラ(そろそろ危ないという話し。延命するかとか、家族の意志を確認する)がいっていたこともあり
延命はしない方向でとのことだったけれど
家族がつくまで、最後に会わせてあげるべく
下肢挙上・肩枕・モニター装着

個室は埋まっているし
観察室も空きが無い

仕方なく、処置室へ移動

その横で、なりっぱなしのナースコール。

夕方の緊急入院さんだ。お腹痛いって。
わー。いつもの不穏のおばあちゃんまでコ−ル握りしめてる。
ああああ、徘徊のおじいちゃんの離床センサーがなってる。また一人で歩いて転んじゃうかも!!
え?熱が36度8分もある?いつも平熱は35度5分なのに??
はい・・・。氷枕ですね。お持ちします・・・

そんなやりとりを繰り替えす。

深夜勤務の方が来て
ターミナルの患者さんを申し送って
家族の到着を待てずに帰宅してきた・・・

誰一人、御飯も食べて無い
休憩にも入って無い

あの、緊急入院さえなければ・・・


重症・要注意者にあげていた方だったから
家族も私たちも覚悟は出来ていた。

明日また日勤のスタッフもいたし、ナチュラル(延命無し)だったこともあって
まかせてきてしまったけれど

なんか・・・最後を看取れる病院じゃないよ・・・
大学病院なんて・・・・

なにより。
看取りに慣れてしまって心を持てない自分が嫌いだ
病棟24人のスタッフ。満床55人。
半分ヅツ、チーム分けしていて

滴のいるAチームは個室と
外科内視鏡オペ(ディサージャリ−という、オペ含め1泊2日の短期入院)
マンマ(乳房)外科(オペ目的)・整形外科・消化器内科ちょっとを受け持ってます

ちなみに、Bチームはマンマのターミナル・消化器内科(UC/クローン・C型肝炎)が多い
たまに外科内視鏡オペが入ります

内視鏡オペっていっても、胆石・胆嚢炎・腸のヘルニア・PPHという痔の手術なんですが。

Aチームは緊急や短期が多く
Bチームは長期入院が多い

でも、そもそも短期と緊急入院が多い混合なので
観察室と呼ばれる手術後の患者さんが入るお部屋は
たいていターミナルか不穏さんがいて5床満床

内視鏡の入院が無い時は速効緊急入院に狙われる

それが混合の宿命です・・・・

だからって・・・・!!!!

ほぼ毎日緊急入院ですよ
しかもAチームばっか。

空くのはAが多いですからね・・・・回転率が高いんです

今年最後のAチーム会は
反省会のあと、皆で蟹懐石を食べにいきました

バスチャーターして。

2年Aチームにいたけど
なにがなんだかわからないまま仕事していたような気がします

途中で胸部血管外科のベットを外してもらったんですが
(あまりにもドクターの指示トラブルが多く、タダでさえ混合なので負担を減らす為に、外科の単科にいってもらったのです)
それでなくても外科と内科の混合。
手術も多いが検査も多い。

もうおばちゃんな頭の滴は覚える事が多すぎて
いまだにわけわかんないルーチンワークとかありますよ

でも、これでひとまず、チーム会の反省会は終わり

本当は個人目標でケアマネージャー受験を入れていたのですが
そんなこんなで無理無理無理

プライベート目標の「無事嫁ぐ」だけクリアしました(≧▼≦)

研修なんか、ひとっつもいかなかったさ
いけるかっつの

でも、2年Aにいたので
外科も内科も検査とか処置とか、一通りわかるようには・・・なったと思う。

全部広く浅く・・・な
気がしますが

蟹でしめて、ほっくほく♪

ああ。これで最後なんだなァとしみじみした次第でした。
Hさんの奥さんから、手紙を貰った
受け持ちだった私と、もう一人の先輩と後輩あてに
ちいさな贈り物がついていた

病院を訴えて、話し合いが終わった事
Hさんの遺骨を、大好きだった海に散骨した事
カルテ開示をしてもらった際、うちのスタッフが細かく計画をたてているのに感心した事
なぜ、最後をうちの病棟で迎えられなかったかという事

愛する人を失って、途方にくれていると言う事

最後は、
「患者さん一人一人を、自分の愛しい人、大切な人に置き換えて、日々お仕事を頑張ってください」と綴られていた

どんなにか悔しかったろう

「そばにいてくれ」という人を残して
「規則ですから」と冷たく追い返され、
重い足を引きずって家に辿り着いたら、
あなたを迎えたのは「亡くなった」という知らせ

もし、うちの病棟のままだったなら
そんな思いはさせなかったのに

それがわかっているから
誰もが
奥さんの気持ちを察して言葉をつまらせた

短期入院が多い病棟で、
規則をかざして終末期を看取れない
そんなところになぜ送りだしてしまったのだろうか

サマリーには
「患者・家族ともに、転科に対しまだ不安を抱いている。
ターミナルであり、いつ急変してもおかしくない事も有り、身体的・精神的フォロー充分にお願いします」と書いて送った

まったく意味をなさないものになってしまった

贈られたちいさな蒼いキャンドルには
Hさんが好きだった海の香と
海を思わせる船とちいさなサカナが飾られて
忘れないよ
きっと

ずっと   

海が大好きで、釣りが大好きで
どんなにくるしくても
あんまり「くるしい」っていってくれなかった

そのかわりに
つったサカナの話・家の改築の話
一生懸命痛みをこらえて、話してくれた

我慢させちゃいけないのに

奥さんの中に残る憤りは
私達の中にもあるけれど

同じ院内で起こったことであって
どう疑問をなげかけたところでHさんは戻ってはこない

もう もどってはこない
目の前で
つめたくなっていく身体

泣叫ぶ家族
動けない私

医師が2人がかりでもくもくと心マしてる中で

私はただモニターを向けて
立ってるのがやっとだった

あのとき、最後に
冷や汗でしめった手で私を見上げて
「苦しい・・・」って言ったかと思ったら
急に意識が無くなった

叫ぶ娘さん
走ってステーションにかけこむ奥さん

あわてて気をとりもどして
コールを押して、
「救急カートお願いします!」って言って
ショック体位をとった

末期癌
もって年内って言われていた

長期外泊を経て、一時退院の準備をしていた

外泊して3日目
急に足がむくんで
病院に戻るのを嫌がった旦那さんを
奥さんが泣きながら連れて来た
採血の結果DICを起こしていたのがわかって
急きょFFPやらMAPやらを準備して
滴は準夜で鼻水すすりながら出勤した直後だった

モニターがずっと鳴っていて
日勤の受け持ちさんが
「なかなかサチレーション拾わないんですけど、100ありますから」
って言っていたので、それかなと思って訪室した

汗をじっとりかいていて、モニターをはずしてしまっている

「汗、拭きましょう。
これは大切なものなので、つけておいてくださいね。」
そういって、蒸しタオルで胸をぬぐった

「熱い!」って睨まれて、
あれ、じゅうぶん冷ましたのにな?と思いながら
すいませんって言おうとした矢先
「苦しい・・・」って言った直後に失禁した
(あとから、大量の下血だったことがわかった)
ギャッチをすこしあげて、サチレーションを付けて、深呼吸を促す。
酸素のルートははずれていない。

「・・・奥さん、替えの下着、ありますか?」
お見舞いの方に気付かれないように、
タオルケットをかけようとした私の手を掴んで
「・・・くるしい・・・」

それが最後の言葉だった

17時32分
心マのかいなく、呼吸が止まって
瞳孔がひらききってしまった

奥さんや、患者さんのお父さんが
「ひとりにしないでよ!!!」
「先逝くやつがあるかぁ!」と
思い思いに叫ぶ

ただ、私達は無力感に襲われて
そこにいた

と、息を吹き返したのだ

「生きてる!先生!!!生きてる!」
そう叫んだ奥さんに
医師も脈をとりながら
「・・・かえって来てる・・・」とつぶやいて
心マを再開した

もどるかに思えた

けれど

10分たっても、意識は戻らず
静かに、静かに
モニターはフラットになっていった

お疲れさま・・・

誰ともなく、そう告げると
医師が心マの手を止めた

17時40分  永眠

この方も、50代の働き盛りのお父さんだった

夏の終り
厳しい熱さが、ゆるやかに涼しさを増していく

そんな中でまた
ひとつ命が消えた

  私の目の前で

朝焼け

2002年9月11日 看護観
受け持ちの患者さんがまた亡くなった

50代で、「家を立て直すんだ」って
腹水でイッパイになったお腹で
やっとのことで椅子にこしかけて
眠れない夜はずっと製図を書いてた

不動産業に転職したばかりの
まだやりてのお父さんだったHさん

肝臓癌だった

進行性の

もって半年と言われたのに
あっというまだった

入院から2ヶ月だった

腎臓が機能しなくなって
短期で透析を開始した
でも、導入当初心配されていた通り、離脱不可能になった

「家に連れて帰りたい」
そう言う奥さんに
痛み止めうんぬんではもうない事を告げた時、
私の頭には、透析にさえ通える体力があったなら大丈夫だという頭があった

腹膜透析をせざるをえなくなり、
その手術の為、腎内に転科転棟したのは
月曜日

私は風邪を引いて寝込んでしまい
最後の顔を覚えていない

ペンアタを打ったあと、どろどろに寝てしまったHさんを、
必要以上に心配する奥さんをたしなめて
「午前中に、どうしてもお風呂は入りたいっておっしゃって、
体調よくなさそうだからやめましょうって言ったんですけど、
やっぱりそのせいですかね。
すこしお疲れになったみたいで。」
そういって、痛み止めの点滴のカラボトルをはずして・・・
その日の夕方、眠りこけるHさんの傍で
奥さんに言われた言葉

「滴さん、もう私我慢できそうになくて。
自分ではまだ大丈夫って思ってるでしょう?
でも、知らないから無茶するの。見てられない。」

癌は告知されているけれど
転位は知らされていない。余命も。
無理をおして行った外出の夜出した高熱から
自分の体力を過信していたと落ち込みながらも、
「次ぎは退院するまで我慢するよ」と
数カ月後の退院を夢見ながらも、自分の死の予感に怯えていたかも知れないHさん

昼夜逆転気味な生活も、
昼間やっとのことで眠りに附いているところを起こせなくてそっとしておいた

できるかぎり奥さんに
一緒に処置に入ってもらったりしながら
Hさんの機嫌をうかがった

昼間は気難しく、口数がすくない人だったけど
静かな夜ほど、細かいわがままやおしゃべりをしてくれた

受け持ちとして
普段頼ってくれない人が
こうしてちいさくてもワガママを言ってくれる事はすごくうれしいから
治療に支障がない程度、できるだけ聞いた

昨日
奥さんが来て
主治医だった先生を是非呼んで欲しいと言われた

その姿が、いつものと違う気がして
早めに来てもらえるように
ポケベルを鳴らした
「あの奥さんがせっぱつまってるのはいつもだよ」なんて言いながらも
しぶしぶ来てくれた先生は
患者さんの容態を見て
引き返して来て

「もう一回、うちで取れないかな」と言った

私のワガママで言えば、正直引き取れるなら
今夜中にでもすぐにでも引き取りたかった
そうすればよかった

ターミナルを見慣れていない病棟は
融通が聞かない
普段、「傍にいてくれ」なんて言わない人だったのに、昨日はだだをこねたらしい
でも、そこの病棟では例外は認められなかった
6人部屋でのつきそいは不可能だし、リカバリ−ルームみたいな大きめの部屋もない

もし、うちで引き取れたなら、リカバリ−で
ストレッチャーでもなんでも入れて、
ずっと奥さんを傍にいさせてあげられる環境が作れたのに
奥さんは、ラウンジにすらいさせてもらえなくて
なぜかうちの病棟のラウンジに降りて来ていたらしい
もう 最後だと言うのに
その時は最後じゃないと判断されて
返されたのだ

あのまま転科させていなければ
Hさん本人に告知してしまわなければやっていけないほど
奥さんは追い詰められなかったのかも知れない
そうでなかったとしても、告知されてしまってからの気力のフォローを
なんらかの形でできたかもしれない

悔しいよ

悔しい
先生と、昨日
主任さんに相談して、ベット空けてもらおうって言っていた矢先だった

受け持ちのもう一人である先輩に手紙を書いて
「受け入れ体勢を整えて」なんてお願いしたりして
できるだけ、悔いのない看取りができたらって

なのに
ステーションから一番遠い病室
暗い廊下側の6人部屋におしこめられて
彼は
逝ってしまった

もう        どこにもいない
3年の闘病生活を終えて
最近亡くなったSさんて患者さんがいて
みんなそのSさんが大好きだった

家に帰ってからも
思い出しては泣いた

とても仲のいい御夫婦だった
理想の御夫婦だった
そのSさんの奥さんに、

「あなたいいわね。総胆管?うち肝臓全部なのよね」
そんな暴言はいちゃうほど、Hさんの奥さんもせっぱつまっていた

Sさんの奥さんもそんなこと言われて辛かっただろうし、
その話が出た時はみんなHさんの奥さんを責めたけど
受け持ちだったせいか、私は責める気持ちにはなれなかった

やりきれない思いが
すごく残る

どうしたって
もうなにもできないけれど

Hさんごめん 
あの時、強引にでも先生を説得して
昨日のうちに個室とってあげればよかったよね
そしたら、静かにおだやかに
逝けたかも知れないよね

そう思うと

すごく悔しいよ

今朝
夢を見た
休みの日なのに、
いつもより早く起きた

病室から、一生懸命朝日の写真、とってたよね
「物持ちいいだろ?数十年前のカメラなんだよ」って言いながら
朝日の写真を無心にとってたHさん

できた写真見せて下さいねって
言えなかった私に

「できたよ」って写真見せてくれた夢

もうきっと
見る事はできないだろうと思うくらい

綺麗な朝焼けだった
DINKSの40代の御夫婦
たよりになるのは互いだけなのに
奥さんが乳癌になった

しかも数年前、良性といわれたのをうのみにして
たとえ痛くても、苦しくても
病院にはいかなかった

民間療法で
いろんなものを試して
高波動のイオン水だとか
はちみついりのクリームだとか
なんでかフラワーレメディも
(これはボトルをちらりと見ただけで、ホントに飲んでたかはさだかじゃない)
さるのこしかけ(350?数十万)だとか

なのに

痛くて歩けなくなってから
うちにきた

「良性なんだから、治るんでしょう?」

日増しに動かなくなっていく身体
全身転位で骨もぼろぼろで
旦那さんが身体を拭いただけで骨が折れた

そのうち、思うようにいかないもどかしさで
どんどん注文は細かくなる

数cm動かして
こっちの肩は触らないで
クビがすわってないから5人くらいでやって
あなただけじゃ無理
今すぐ旦那を呼んで(夜中4時)
いかないで 傍にいて
看護婦さん!看護婦さん!!!

最後はどうしても心細くなる
傍にいてあげたいのはやまやまなのだけど
そうもいかなくて

にっちもさっちもいかない気持ちで勤務を後にする

ありがとね
お願いね
こうしてね
やりすぎ!
こうして
ああして
ありがとね
もういいわ

終わってからも耳から離れない
指先を洗っても洗っても
彼女の独特の臭いがする

抗癌剤で黄色く湿った体液
耐えきれなくて点滴のアナから漏れ出す体液

旦那は毎日来る
仕事はどうしたのだろうと思うくらい来る
よる消灯をすぎてもいる


あなたはどうしてほしかったのだろう

旦那さんと、本人の死生観

残されていくものにのしかかる
「後悔したくない」という自己満足

そのなかで
できること、すべきことはなんなのか

蒼いノート

2002年4月21日 看護観
  
  蒼いノートがなくなっちゃった
 
 職場で
 後ろのページに 小説が走り書きしてあった
 夜勤のトキ 書いたやつ

 誰も所在を知らない
 探してもくれない
 
 そのノートがあったことさえも 知らない人もイル
 
 患者さんの疾患や 病棟の業務や 
 処置の仕方や 検査の内容なんかも
 細々とメモってあった

 なくなっても
 誰も 困らない 私以外

負けない 負けたくない なんにも

6年間あるから きっと身に付いてるから
あんたたちなんかより

そう思いながら毎日 出勤する

 
 患者さんの中に 男勝りな美人さんがいる
 すごくよく見ていてくれる
 
 「滴ちゃんにやってもらうのが一番だよー気兼ねなくってさぁ。」
 そう言われて 視界がにじんだ

泣かない 簡単には泣かない
とっておくの

泣きそうな顔で笑っても 許してよ
昨日の初深夜で
患者さんが相次いで2名お亡くなりになりました

はじめて一晩に2回もお焼香しました

昼間すでに肝不全でレベルが下がった方と
週明けにICUに移動していた激症肝炎の方

肝不全の患者さんを追うようにして
30分後に激症肝炎の方が逝った

つい先週まで、二人とも歩いていた
言葉を交わすことができた

お仕事で第一線にいる娘さんを気づかい
奥様だけに知らせて最後まで頑張ったTさん

幾度も血漿交換を施行して
クリーンルーム(亜清潔なんだけど)から「はやく出たい」と泣いたSさん

肝臓を患うということは
とてつもなく怖いのだということを思い知った

A型・B型・C型肝炎
最近血液製剤にC肝ウィルスが入っていたとかで大騒ぎしてるけど
本来病気を治すための血液製剤で
新たに病気になるなんて・・・・

SさんはA型肝炎
本来気が付かないウチに治っていたりするこの病気が
激症化して死にいたらしめるとは

TさんはC型肝炎
肝炎の中で最も怖い
肝硬変から始まってこれにいたり、最後は全身黄染し、腹水とかで全身ぱんぱんにむくんでしまい、多臓器が機能停止していく
(病態は妖しいですよ?こればかりではないです)

私は
これからたくさん勉強して
少しでも安楽に最後を迎えられるような看護が提供できるように

頑張らなきゃならない

すこしでも

2人はあっという間だった
なにもできなかった

私にして欲しい事なんて
なかったかもしれないけれど

重く晴れ上がった腕をさする
点滴が入らなくて何度も挿された跡のある腕
すこしづつ
冷たくなっていく身体

お疲れさま

家族が駆け付けるまで
頑張り続けた心臓

お疲れさま

早く楽になりたいと泣いた目を伏せて

最後のうめき声が
今も耳に残る

こうして
慣れていくのだろうか

こうして

涙一つも流せない

はじめての夜勤です
ひさしぶり。

脳硬塞のおじいちゃんにすっごい仲良くしてもらえて
麻痺で舌が回らない彼が文字盤で一生懸命
「けっこんのときはおしえてね。きもちをおくるから」
と伝えてくれた

泣きそうになった

断るあたしにどうしてもっていうから
「じゃぁ、お手紙をくださいね」って言ったら
麻痺でうまく動かなくなった手を「オーケー」の形にして
「じのれんしゅうする」って言ってくれた

これだけで
頑張っていこうって思えた

あたしを
あたしだから必要としてくれる人

やっとみつけた気がした

って言っても結婚の予定を作らなきゃいけなくなった@滴
4日間働いてみましたが
毎日帰りは20時くらいです

オーダリングを入れたばかりでみんなパソコンの前で死にそうになってます
スタッフはいらいらしていて
名前を呼んでも無視したりする人もいたり
(私にはさすがにまだしないが)
医療事務さんが依託だし、助手さんは態度悪いし
なんなんだろう・・・あそこ

告知しないくせにカルテ開示だし
(でも婦長さんに聞いたら・まだ申し入れて『見せろ』と言って来た人はイナイらしい)
ケアも検温もなんだかナゾだしやっていけるのかな。

なによりお昼の休憩時間
イスが足りないで立ったままのスタッフがいても誰一人声かけやしない
数人は立ったまま・・・・

なにそれ

SOAPの基本概念が「看護計画にのっとって進んでいれば毎日記録する必要なし」だとかで毎日の記録がない。

15日退院していった人なんて2/4に退院が15日って決まった時点で記録の記載がいっさいない。温度表だけ。

その人は
骨頭壊死で片杖がなきゃ歩けなくなった
20代の男の人
しかも職場は自衛隊だ

退院後どうしていくのか
気になって聞いてみたら
「よくわかんないんです・デスクワークしか出来ないですよね・・・職場からはなにも言ってこないんです。」と

それってさ
本当だったら
不安を抱えたままの退院になるって問題点は出てこないのかな
医者が退院を決めたから
もう問題点はなく退院していくって思うのは
おかしくないかな

退院したらもう終わりなんて看護はない
継続看護はどうしてるんだろう

痛いよね
辛いよね
リハもういらないって言われたとしても
健康に歩けなくなった足

どうしたらいいかなって
考えるよね

しかも職場が職場だし・・・

どうして誰も
聞いてあげもしないんだろう

たしかにシビアな問題だし看護婦が関わるのには限界が在るけれど
聞く事くらいはできるじゃないか

聞いてあげた人がいたのかもしれない
でも

記録の上ではまったく表れていない
患者さんの気持ち
看護婦のかかわり

見えてこない
相手

4日間いて感じたのは
「これが大学病院の看護?」

看護計画はしっかりしている
相手を思って建てた紙面上の計画
誰が見ても実行可能な業務内容

でも

それを実行できているんだろうか
「●●委員会」「勉強会」「チーム会」「業務改善」そんなのばかりに時間を使うけど
どれも看護上生かせていっているのだろうか

誰かが電話で言った
「大学病院ってそんなもんだよ」
誰かが電話で言った
「大学病院でマトモに機能しているのは本院だけだよ」

・・・そうなの?

医者が点滴も採血も全部やってしまうから
もう私の駆血帯は必要無くなってしまった
得意だった留置針を入れる技術も

みんながステーションでコンピューターに向かってる
記録に向かってる

コールがなっても
部屋持ち以外は取らない
取っても部屋持ちを呼ぶ

それがたとえ「ベットを起こして下さい」なんてささいなものであっても
部屋持ち以外は関わっちゃいけないんだ

そんなのってなに?

チームナーシング
プライマリーナーシング

看護体制にはいろいろあるけれど

ここのシステムが見えてこない
患者さんも古い汚い部屋に6人も押し込められて
ネムレナイ夜をやり過していってる

築が古いだけだろうか
看護学校からの繰り上がりが多いからだろうか
まるで看護学校の延長

お昼御飯から帰って来た私に昼残りだった後輩が「●●さんが怒ってます」と言って来た

午前中に処置をした私のせいではないかと

朝から手帳がなくなったと騒いでいるお年寄りだった

部屋持ちの2年目のコは「探したのにない」と言い、それよりも内服薬管理ができない彼をどうしたらいいかに頭を悩ませていた

怒らせるような原因は思い当たらない

とりあえず話を聞きに行く。
たしかになにかに怒っているが「私に落ち度がありますか?」と訪ねても「看護婦に落ち度はない」と言う

そして苛立ちにまかせて「手帳がないんだ」と怒鳴った

午前中にベット周りは探した
処置の時にシーツの上も枕の下も確かめた

また納得いくまで探して
なかったらあきらめてもらおうと
再度引き出しを探った
後ろから見ていた後輩は「そこは探しました」と

でも探した

そこは『私自身』は探していなかったから

自分の手で納得がいくまで
患者さんの目の前で一つ一つ確かめていきながら探せばみつかる
すくなくとも患者さんが落ち着くのなら

あった

すぐ手前にある袋に大切にしまってあった
「これですか?」と訪ねると彼は満足そうにうなずいた

いらいらされていた原因はこれ
しかも同じ方が準夜に差し掛かった時に
シーツを汚した

2年目のコは「午前中処置した時になにかなかったですか?」と聞く
「液は出ていませんでしたか?」と
腹水?膿?シーツがびしょびしょだと。

「濡れてるのはお小水ではなくて?」
「お小水は管が入っているじゃないですか。
 汚れは無色透明だそうです」

確かめに行くとなんのことはない
おしっこの管が体動の際体の下敷きになって
管からお小水が流れなくなり
膨れた膀胱から管の入っている尿道をつたってお小水が漏れただけのこと

いわゆる

尿漏れそのもの

彼女は自分の目に確かめもせず
処置を失敗したからではと私を疑った(それにしたって午前中に終えた処置をなぜ夜に起こった事に結び付けるのか)

お昼残りの看護婦にしたって
きちんと患者さんの訴えを聞けば
「なにで怒っているのか」くらい自分で理解できたはずだ
人を疑う前に

両方とも
そこで2年働く看護婦
そこで3年学生時代を過ごした看護婦だ

前の職場の1年生の方がきっちりしている
ちゃんと自分のした事に責任をもっていて
人のせいにはしない
ちゃんと自分の目で確かめてから報告してくる
患者さんの訴えもちゃんと聞いてくる

看護計画なんて紙面は
あるだけで活用されてなどいなかったし
記載すらぬけぬけだったけれど

そこにはちゃんと「看護」があった

1年目ですら

記載だけ立派な
頭でっかちの看護

患者さんの「ほんとう」を見てない
うわっつらだけの看護

そんな気がした
ねぇ
本当にそうなの?

1ヶ月のパート期間に
得られるものはなんだろう
滴

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